藤井聡太棋聖が揮毫した「雲外蒼天」は、苦境の先にある新しい景色を目指す思いを表した言葉です。
2021年10月10日、第92期棋聖の就位式で藤井聡太棋聖が扇子に揮毫したのが「雲外蒼天(うんがいそうてん)」でした。ところが、その意味は比較的分かりやすい一方で、「どの古典から出た言葉なのか」と調べ始めると、意外なほど簡単には答えが見つかりません。
この記事では、「雲外蒼天」の意味、藤井聡太棋聖がこの四文字に込めた思い、よく似た「雲外青天」、さらに中国古典や漢詩に見られる「雲外」「蒼天」の用例まで、順を追って詳しく見ていきます。
藤井聡太棋聖の「雲外蒼天」とは?意味と揮毫の背景
結論から言えば、「雲外蒼天」は、目の前が雲に覆われていても、その向こうには青空が広がっているという希望を表す言葉として、現在の日本では使われています。
「雲外」は文字通り、雲の外、あるいは雲を抜けた向こう側という意味です。
「蒼天」は青々と広がる空、晴れた大空を指します。
二つを合わせると、「雲を抜けた先に広がる青空」という情景になります。
そこから、
- 苦しい時期を乗り越えれば明るい未来が開ける
- 努力を続ければ、それまで見えなかった景色に到達できる
- 困難のただ中にあっても、その先に希望がある
といった意味で用いられるようになっています。
実際、藤井聡太棋聖自身の説明も、この一般的な意味とよく重なります。
2021年10月11日、読売竜王戦の公式SNSは、前日に行われた棋聖就位式で藤井聡太三冠が「雲外蒼天」と揮毫したことを紹介しました。
藤井棋聖は、そこに込めた思いについて、強くなることによって盤上で今まで見えていなかった新しい景色が見えるようになり、その境地を目指していきたいという趣旨を語っています。
この言葉を単に「困難に負けない」という精神論だけで受け取ると、藤井棋聖の意図を少し狭く見てしまうかもしれません。
ポイントは、雲を晴らすことよりも、雲の向こうにある「今まで見えていなかった景色」を目指していることです。
将棋の世界では、強くなればなるほど、それまで気づかなかった局面の意味や手の可能性が見えるようになるのでしょう。
藤井棋聖にとっての「蒼天」は、単に勝利のことではなく、棋士としてさらに深い世界が見える境地なのではないかと私は感じます。
学びを長く続けていると、これは将棋に限った話ではないとも思います。
私自身、長く弓道や漢詩に親しんできましたが、若い頃には分かったつもりになっていたことが、何十年も経ってからまったく違って見えることがあります。
「雲外蒼天」という言葉には、努力の先に結果があるというだけでなく、学びを重ねた人だけに見える新しい景色があるという含みも感じられます。
「雲外蒼天」の出典はどこ?古典の四字熟語なのか
「雲外蒼天」の意味を調べる際、最も気になるのが出典ではないでしょうか。
四文字で整った形をしているため、中国の古典や禅語、漢詩などに由来する古い四字熟語のように感じられます。
ところが調べていくと、ここが少々難しいところでした。
「雲外蒼天」という四文字が、そのまま古典の有名な一節として使われている例は、容易には見つかりません。
少なくとも、「臥薪嘗胆」「温故知新」のように、特定の中国古典の一句から直接取り出された言葉として説明できるものではないようです。
元の記事を書いた際、私も中国古典や漢詩の用例をできる範囲で追いましたが、「この文章が『雲外蒼天』の直接の出典です」と断定できるものには行き当たりませんでした。
そのため、現在日本で使われている「雲外蒼天」は、古典の定型句というより、日本で比較的新しく広まった表現と見るほうが自然だと考えています。
ただし、ここで注意したいことがあります。
「雲外蒼天そのものの出典が見つからない」ということと、「四文字のすべてに古典的な背景がない」ということは別です。
実際には、
- 「雲外」という表現
- 「青天」という表現
- 「蒼天」という表現
- 雲を抜けて空へ上がるという漢詩的な情景
は、古い漢詩や中国古典の中に見ることができます。
ここが「雲外蒼天」の出典を考えるうえで興味深いところです。
つまり、完成した四字熟語としての古い出典は確認しにくいが、言葉を構成する材料そのものは古典世界の中に昔から存在していたと考えることができます。
私は漢詩を調べるとき、「出典」と「背景となる用例」を分けて考えることが大切だと思っています。
ある言葉が古典そのものに書かれていなくても、古典の中にある語句やイメージを組み合わせ、新しい時代に新しい意味が与えられることは珍しくありません。
「雲外蒼天」も、そのように考えると非常に味わい深い言葉になります。
一字違いの「雲外青天」は謝枋得の漢詩に見える
「雲外蒼天」を調べているうちに見つかったのが、一字違いの「雲外青天」です。
「蒼天」と「青天」は、どちらも青い空を表します。
細かな語感は異なりますが、「雲の向こうに青空がある」という基本的な景色はほぼ共通しています。
そこで目に留まったのが、南宋末期の人物、謝枋得(しゃぼうとく)の漢詩です。
題は「窗間戲題」。
「窗間」は窓辺、「戲題」は戯れに題する、というほどの意味ですから、窓の外を眺めながらふと詠んだ詩、といった雰囲気でしょう。
原文は次の通りです。
窗間戲題
雲在青山自往還,鶴穿雲外上青天。
雲來鶴去不相試,兩個無心莫結緣。
特に注目したいのが二句目です。
「鶴穿雲外上青天」
大意をとれば、鶴が雲を突き抜け、その外にある青空へと昇っていくという情景です。
まさに「雲外」と「青天」が一つの句の中に並んでいます。
一字目から順に簡単に見ていきましょう。
第一句は、
「雲在青山自往還」
雲が青い山々のあたりを、自然に行き来している様子です。
第二句は、
「鶴穿雲外上青天」
鶴が雲を穿つように抜け、その上の青空へ昇っていきます。
第三句は、
「雲來鶴去不相試」
雲が来れば鶴は去り、両者が互いを意識して競い合うわけではありません。
第四句は、
「兩個無心莫結緣」
雲も鶴も「無心」であり、互いに執着して縁を結ぼうともしない、と読むことができます。
私なりに平たく受け取れば、雲は雲として流れ、鶴は鶴として飛んでいるだけで、互いを気にしていない自然な姿を詠んでいるのでしょう。
ここで大切なのは、この漢詩の「雲外青天」が、現在日本で「雲外蒼天」に込められている「苦難の先には希望がある」という意味を、そのまま表しているわけではないことです。
確かに景色はよく似ています。
しかし、似た言葉が古典にあることと、現在の四字熟語の直接の出典であることは同じではありません。
この点は慎重に区別したほうがよいでしょう。
ただ、鶴が雲を突き抜けて青空へ昇る姿は、藤井棋聖が語った「強くなることで、これまで見えなかった新しい景色を見る」という思いと、不思議なほど響き合います。
直接の典拠とは断定できなくても、漢詩の世界から「雲外蒼天」を眺め直すと、言葉の景色がいっそう鮮明になります。
謝枋得とはどのような人物だったのか
この詩を作った謝枋得は、南宋末期の政治家・文人として知られる人物です。
非常に優秀な人物で、科挙でも高い成績を収めたとされますが、最後の殿試で当時の政治を批判する姿勢を示したため、最高位にはならなかったという話も伝わっています。
その後、南宋は元によって滅ぼされました。
謝枋得は王朝滅亡後、表舞台から身を引き、各地を転々としながら生活したとされています。
元の側は、旧南宋の有能な人物を新政権に登用しようとしました。
謝枋得にも仕官を求めましたが、彼はこれを拒み続けます。
最終的には大都、現在の北京へ連れていかれましたが、元に仕えることを拒否し、食を断って亡くなったと伝えられています。
南宋滅亡期の人物では、元への服従を拒み、最後まで宋への忠節を貫いた文天祥がよく知られています。
謝枋得もまた、それに劣らず自らの節義を守った人物だったのでしょう。
こうした生涯を知ったうえで「鶴穿雲外上青天」という句を読み返すと、単なる窓辺の風景だけではない印象を受ける人もいると思います。
もちろん、作者の生涯をそのまま詩の意味に重ねるのは慎重であるべきです。
それでも、雲を抜けて高く上がる鶴の姿に、束縛を離れて自らの道を進む精神を感じたくなるのも自然な読み方ではないでしょうか。
「雲外」と「蒼天」は古典でどのように使われてきたのか
「雲外蒼天」という四字そのものに明確な古典出典が見つからないとしても、「雲外」「蒼天」という言葉には、それぞれ長い歴史があります。
ここをたどってみると、「雲外蒼天」が決して古典世界と無縁の言葉ではないことが分かります。
石川丈山の「富士山」に見える「雲外」
日本の漢詩で「雲外」の用例を探すと、江戸時代初期の文人石川丈山の「富士山」があります。
石川丈山は徳川家康に仕えた武士として出発し、その後は文人として漢詩や書、庭園文化にも大きな足跡を残した人物です。
詩は次のようなものです。
富士山 石川丈山
仙客来り遊ぶ 雲外の巓
神龍栖み老ゆ 洞中の淵
雪は紈素の如く 煙は柄の如し
白扇倒に懸かる 東海の天
ここで「雲外の巓」とあります。
「巓」は山の頂を意味しますので、雲よりも高いところにそびえる富士山の頂を表しているのでしょう。
富士山を巨大な白い扇に見立てることで知られる詩ですが、「雲外」という言葉が、文字通り雲を超えた高所を示す語として自然に使われていることが分かります。
この場合も「困難を越える」という意味ではありません。
けれども、雲より高い場所、地上からは簡単に見通せない場所という空間的イメージは、現代の「雲外蒼天」に通じています。
『詩経』にも登場する「蒼天」
一方、「蒼天」は非常に古い言葉です。
中国最古の詩集とされる『詩経』にも「蒼天」という語が登場します。
有名な一節に、次のようなものがあります。
知我者
我を知る者は
謂我心憂
我は心を憂うと謂い
不知我者
我を知らざる者は
謂我何求
我は何を求めているのかと謂う
悠々蒼天
悠々たる蒼天よ
此何人哉
これはいったい誰のせいなのか
ここでの「蒼天」は、青く広がる大空です。
ただ美しい青空を眺めているだけではありません。
自分の心を理解してくれる人と、理解してくれない人との隔たりを嘆きながら、広大な天に問いかけるような場面で使われています。
つまり、「蒼天」という言葉は古くから、単なる気象としての青空ではなく、人間の小ささを包み込むような大きな天を表す言葉として使われてきたことが分かります。
現代の「雲外蒼天」にも、ただ「天気が晴れる」という以上の広がりを感じるのは、そのためかもしれません。
「雲外蒼天」はなぜ現代人の心に響くのか
現在の日本では「雲外蒼天」は、座右の銘、応援の言葉、書道作品などに使われることがあります。
2021年10月6日にも、SNS上で「雲外蒼天」という言葉を掲げ、信じて前へ進もうとする趣旨の投稿が見られました。
この言葉が受け入れられやすい理由は、私は意味を説明しなくても情景が頭に浮かぶからではないかと考えています。
暗い雲の下に立っているとき、人は空全体が曇っているように感じます。
しかし飛行機に乗った経験のある方なら、分厚い雲を抜けた途端、その上にまぶしい青空が広がっていた景色を思い出すでしょう。
地上から見える空と、雲の上にある空は同じ空です。
自分がいる場所が違うだけで、見える景色はまったく異なります。
この構造こそ、「雲外蒼天」という言葉の魅力ではないでしょうか。
苦しい時期に「すぐ状況が良くなる」と断言する言葉ではありません。
むしろ、今いる場所からは見えていない景色が存在するかもしれないと静かに示してくれます。
その点で、藤井棋聖の使い方は非常にこの四文字にふさわしいと私は感じます。
棋士としてさらに強くなれば、今まで見えていなかった盤上の景色が見えてくる。
これは「勝てば幸せになる」という単純な意味ではありません。
自分を高めることによって、世界の見え方そのものが変わるという話です。
中高年になって学び直しを始める方にも、どこか通じるところがあります。
新しいことを始めると、最初は分からないことばかりです。
本を読んでも理解できず、何度練習してもうまくいかないと、「自分には向いていないのではないか」と感じることがあります。
しかし、同じ基本を何度も繰り返しているうちに、ある日ふと、以前は気づかなかったことが見える瞬間があります。
私は弓道でも読書でも、そのような経験を何度もしてきました。
昨日までそこにあったはずなのに見えていなかったものが、ある日突然輪郭を持って見えるのです。
そう考えると「雲外蒼天」は、若い人だけの勢いのある励ましではありません。
年齢を重ねても、学び続ければ新しい景色に出会える。
そんな静かな励ましとしても味わえる言葉だと思います。
「雲外蒼天」と「青天を衝け」に共通する言葉の面白さ
古典から取られた言葉は、元の文章と現代で受ける印象が同じとは限りません。
その分かりやすい例が、NHK大河ドラマのタイトルにもなった「青天を衝け」です。
「青天を衝け」という四文字だけを見ると、青空を突き抜けるような大志、あるいは高い目標へ挑戦する力強さを感じます。
しかし、その言葉のもとになったのは、渋沢栄一の漢詩「内山峡」です。
原詩では、険しい道を進む際の山々の様子などが描かれており、現代人が「青天を衝け」という題名から受ける爽快な印象とは少し趣が異なります。
ここに、言葉の面白さがあります。
出典の文章が持っていた意味と、後世の人が一部分を取り出して受け止める意味は、必ずしも一致しません。
「雲外蒼天」についても同じことが言えるでしょう。
たとえ古典にそのままの四文字が見つからなくても、「雲外」「青天」「蒼天」という言葉が長い年月をかけて蓄えてきたイメージを背景にしながら、現代の人々が新しい意味を与えていると考えることができます。
言葉は辞書の中だけで生きているものではありません。
人が使い、受け取り、その時代の経験と結びつくことで、少しずつ意味を豊かにしていきます。
2021年の棋聖就位式で藤井聡太棋聖が「雲外蒼天」と書き、「今まで見えていなかった新しい景色」を目指す思いを語ったことも、この言葉の新しい歴史の一部になったと言えるでしょう。
私は、出典が一点に決められないことを残念に感じるより、むしろそこに魅力を感じます。
古典に由来する語を材料にしながら、新しい時代の人が新しい意味を育てていく。
それは、漢詩や四字の言葉が今も生きている証拠ではないでしょうか。
藤井聡太棋聖「雲外蒼天」の意味と出典を改めて考える
ここまで調べた内容を整理すると、「雲外蒼天」について最も大切なのは、直接の出典と、言葉を支える古典的背景を分けて理解することです。
「雲外蒼天」という四文字そのものについては、古代中国の有名な故事や漢詩の一句から直接取られたと断定できる明確な出典は、容易には確認できません。
その一方、一字違いの「雲外青天」は謝枋得の「窗間戲題」に見られます。
さらに「雲外」は石川丈山の漢詩「富士山」に、「蒼天」は中国最古の詩集とされる『詩経』にも登場します。
ですから、「雲外蒼天」は何の背景もない突然の造語というより、古くからある漢語のイメージを組み合わせ、現代日本で意味を発展させてきた言葉と捉えると理解しやすいでしょう。
そして2021年10月10日、第92期棋聖の就位式で藤井聡太棋聖がこの言葉を揮毫しました。
藤井棋聖が込めたのは、強くなることで盤上にこれまで見えていなかった新しい景色が見えるようになり、その境地を目指したいという思いでした。
「苦労すれば成功する」と単純に言い換えてしまうと、この言葉の魅力は薄れてしまいます。
努力を積み重ねることで、自分自身の見える世界が変わる。
そこに「雲外蒼天」の奥行きがあります。
長く学びを続けてきた者の一人として、私はこの受け取り方に強く心を引かれます。
初心者の頃には見えない景色があります。
少し経験を積んだだけでは、まだ見えないものもあります。
それでも基本を繰り返し、一歩ずつ続けていると、あるところで視界がふっと開けることがあります。
藤井棋聖ほどの世界とは比べようもありませんが、学ぶという営みの根底には共通するものがあるのではないでしょうか。
「雲の下にいるからといって、空そのものがなくなったわけではない」。
私は「雲外蒼天」を、そのような静かな励ましの言葉として覚えておきたいと思います。
よくある質問
「雲外蒼天」はどう読むのですか?
「雲外蒼天」は、一般に「うんがいそうてん」と読みます。
「雲外」は雲の外、「蒼天」は青く広がる空を意味し、現在は「困難の先には明るい未来や新しい景色がある」といった意味で使われています。
「雲外蒼天」は中国の故事成語ですか?
古代中国の特定の故事から生まれた四字熟語として、明確な出典を示すのは難しい言葉です。
ただし、「雲外」「青天」「蒼天」といった語は漢詩や中国古典に古くからあり、謝枋得の「窗間戲題」には「鶴穿雲外上青天」という近い表現があります。
藤井聡太棋聖はなぜ「雲外蒼天」を選んだのですか?
2021年10月の棋聖就位式で、藤井聡太棋聖は「雲外蒼天」と揮毫しました。
その思いについて、強くなることで盤上に今まで見えていなかった新しい景色が見えてくるため、それを目指していきたいという趣旨を語っています。
「雲の先にある青空」という言葉の景色と、棋士としてさらに高い境地を目指す姿勢がよく重なっていると考えられます。
「雲外蒼天」は、出典を一つに定めようとすると少々つかみにくい言葉です。しかし、謝枋得の「雲外青天」、石川丈山の「雲外」、そして『詩経』の「蒼天」をたどると、その背後には長い漢語文化の積み重ねが見えてきます。
そして藤井聡太棋聖がこの四文字に「まだ見えていない新しい景色」への思いを託したことで、「雲外蒼天」は現代の私たちにもより身近で、印象深い言葉になりました。苦しいときだけでなく、何かを長く学び続けようとするときにも、心の片隅に置いておきたい四文字です。
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