陸游の遊山西村を解説します 対句の形式を学ぼう

中国の漢詩

南宋の詩人陸游の遊山西村を解説します。この時代、南宋は金に圧迫されており、陸游は対外強硬論を主張して度々免職されています。

この詩は陸游43歳のころの作品で免職されて郷里の浙江省紹興市に戻った時のしです。世の中の切迫感とは違い、郷里の村々の素朴さをうたい上げた詩です。

陸游の遊山西村の本文と読み

遊山西村  山西(さんせい)の村に遊ぶ

莫笑農家臘酒渾 笑うなかれ 農家の臘酒(ろうしゅ)渾(にご)れるを

豐年留客足雞豚 豊年 客を留むるに 鶏豚(けいとん)足る

山重水複疑無路 山重(さんちょう) 水複(すいふく) 路無きかと疑い

柳暗花明又一村 柳暗(りゅうあん) 花明(かめい) 又一村

簫鼓追隨春社近 簫鼓(しょうこ) 追随して 春社(しゅんしゃ)近く

衣冠簡朴古風存 衣冠(いかん) 簡朴にして 古風存す

從今若許閑乘月 今より 若(もし) 閑(かん)に 月に乗ずるを 許さば

拄杖無時夜叩門 杖を拄(つ)いて 時と無く 夜門を叩(たた)かん

陸游の遊山西村の意味と解説

陸游の故郷である現在の浙江省紹興市の三山の西の村に遊ぶ

莫笑農家臘酒渾

笑ってはいけないよ、農家では年末に仕込んだ酒である臘酒が濁っていることを

臘酒とは陰暦12月を臘月と言い、その頃仕込む酒のことを言います。

七言絶句ですから第1句の「渾」、第2句の「豚」、第4句の「村」、第6句の「存」、第8句の「門」が「元」という分類の韻を踏んでいます。

豐年留客足雞豚

今年は豊年だから客をとどめても鷄や豚は十分に足りている。

こちらの句は平易ですからわかりやすいでしょう。

山重水複疑無路

山は重なり川は複雑に入り組んでいて、路がないのではと疑ってしまったとき、

柳暗花明又一村

柳が暗く花が明るく、そこにまた一つの村がありました。

行き先がなくなったと思ったとき村が忽然と出てくる表現は陶淵明の桃花源記をほうふつとさせますね。

この4句目と3句目は頷聯と言って、対句をなすことが決まりとされています。山重と柳暗、水複と花明、疑無路と又一村が対となっています。

簫鼓追隨春社近

縦笛と鼓は互いに追いあっており、春の祭りがちかく、

衣冠簡朴古風存

村人たちの服装は簡素で朴訥、古い時代のままのよう。

この5句、6句の頸聯も対句が要求されています。簫鼓と衣冠、追随と簡朴、春社と古風、近と存が対ですね。こちらは単語も簡単ですのでわかりやすいでしょう。

從今若許閑乘月

従今は今より若し のんびりと月あかりに照らされておとずれてもよいなら、

拄杖無時夜叩門

杖をついて 時無くは気が向いた時に 夜門をたたいてお邪魔しましょう。

この詩は1句、2句でこの村を自慢する古老の言葉を、3句から6句で村の情景を、7句、8句で作者の挨拶と返事を描いています。そういう意味では少し変わったしといえるでしょう。

作者の陸游はどんな人

1125年生まれの1210年に没した南宋の詩人です。出身は浙江省紹興市になります。陸游は29歳の時解試に首席で合格するが、省試において宰相秦檜に名指しで落第させられます。宰相の孫が二位だったのを恨まれたとも陸家の人々が金に対する主戦派だったことが災いしたとも言われています。

34歳で任官することになりますが、たびたび直言が災いし任官と免職を繰り返したと言われています。

陸游の遊山西村を解説しますのまとめ

陸游の遊山西村を解説してきました。何かと愛国主義的な陸游の生涯でしたが、故郷の山河に帰ってきたときにはこのようなのんびりとした詩もつくります。

中でも触れましたが、この詩は陶淵明の桃花源記を背景に控えたような詩ですし。世説新語にある王徽之が友人の戴逵(たいき)を夜中に月あかりの元、興に乗じて尋ねるが、玄関まで来て興が覚めたと言って、そのまま還ったという故事を踏まえていると言われています。

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