漢詩の李白の清平調詞の鑑賞と七言絶句の規則

中国の漢詩

李白の漢詩「清平調詞」は李白が42、43歳ころの作品と言われています。玄宗皇帝の命により、ほぼ即興で作られたと言われている詩です。

この詩は七言絶句の三部作として知られていますが、牡丹の美しさを楊貴妃の美貌にかけてうたったものです。

李白の漢詩清平調詞はどんな内容でしょうか

ご紹介すると次の三部作になります。

清平調詞 三首

其一

雲想衣裳花想容 春風拂檻露華濃

若非群玉山頭見 會向瑤臺月下逢

其二

一枝濃艶露凝香 雲雨巫山枉斷腸

借問漢宮誰得似 可憐飛燕倚新粧

其三

名花傾国兩相歡 長得君王帯笑看

解釋春風無限恨 沈香亭北倚闌干

李白の漢詩清平調詞の読み方は

其の一

雲には衣裳を思い花は容(かたち)を想う 春風檻(おはしま)を払って露華(ろか)濃やかなり。

若し群玉(ぐんぎょく)山頭にて見るに非ずんば 会(か)ならず瑤臺(ようだい)月下にて逢わん。

其の二

一枝の濃艶(のうえん)露(つゆ)香を凝らす 雲雨巫山枉げて断腸。

借門す漢宮誰か似たるを得ん 可憐の飛燕新粧に倚る。

その三

名花傾国両つながら相歓ぶ 長(つね)に得たり君王の笑み帯びて看るを。

解釈す春風無限の恨みを 沈香亭北欄干に倚る。

李白の漢詩清平調詞の意味は

其一

雲は美しい楊貴妃の衣装のようで花は美しい容貌のよう 春風は欄干を払って美しい露がしっとりと降りている。

もし、群玉山(不老不死の西王母が住むという伝説上の山)のほとりでお目にかかれる西王母でないなら、きっと玉で作った美しい台で出会う有城氏の美女に違いない。

前半はまだ分かり易いのですが、後半は典故がありますので、分かりにくいことと思います。群玉山なんて知らなければ全くわかりませんし。

瑤臺(ようだい)だって、楚辞を読んでなければわからないでしょうから。

其の二

一枝の濃艶な花に露がその香りを凝結させたかのような美人である、このような美人に比べると、雲雨巫山の美人を想って、断腸の思いをしたことは、枉げたこと(無駄なこと)。

お尋ねしますが、漢の宮殿にこれほどの人に似た人がいるだろうか、いとおしい趙飛燕今化粧したばかりの顔を示している様子が今の楊貴妃の姿なのだ。

この詩も典故が入っていますので難しいでしょう。

雲雨巫山は昔楚の懐王が巫山に遊んだ時、昼寝の夢に美女が現れ、契りを結びます。美女は巫山の神女で朝は雲となり夕は雨となって現れると告げた故事によるものです。

この美人よりも楊貴妃の方が美しいので、それを想って断腸の思いをするのは無駄なことだと言っているのです。

もう一つは、趙飛燕の話ですが、漢の成帝の時代に貧しい身分から押しのけて皇后についた人です。中国では絶世の美女として知られています。

其の三

牡丹の名花と傾国の美女は二つながらその美を競い合っている、君王(天子)は微笑みながらいつまでも見飽きることはない。

春風が持ち寄る果てしない思いを消し去る(解釈は消し去る、取り除くの意味です。)かのように、沈香亭の北の欄干にもたれている。

傾国は美女の代名詞ですよね。国中の人がそちらを見るから傾くという説と国を亡ぼすという説がありますが。ところで沈香亭の欄干にもたれているのは誰でしょう。

玄宗皇帝という説と楊貴妃という説と二つあります。お好きな方で楽しんでください。

李白の漢詩清平調詞の構成と七言絶句の規則

清平調詞は其の三までありますが、其の一で解説していきます。一句七言で四句ありますから七言絶句であろうと推測されます。

しかし、本当は押韻、二六対、二四不同などの規則をクリアしなければならないのです。その他にも捻法、反法、下三連、弧平の規則があるのです。

李白の清平調詞の押韻は

各句の末尾の字の平仄を調べることで分かります。一句目の容は平字の冬、二句目の濃は平字の冬、三句目の見は仄字、四句目の逢は平字の冬です。

一句目、二句目、四句目が韻を踏んでいますので押韻についてはクリアーしています。

李白の清平調詞の二六対、二四不同については

各句の二字目、四字目、六字目の平仄を見ていきます。

一句目は想、裳、想ですので、仄字、平字、仄字

二句目は風、檻、華ですので、平字、仄字、平字

三句目は非、玉、頭ですので、平字、仄字、平字

四句目は向、台、下ですので、仄字、平字、仄字

このように二字目六字目がそろっており、四字目が反対になっています。これでこの問題もクリアーされています。

さらに同じ二字目を一句目から順番に見ていくと一句目は仄字で、二句目は平字になって、ひっくり返っています。これを反法と言います。

そして三句目は同じ平字で繋がっています。これを粘法と言います。そして四句目は反法です。これも大丈夫ですね。

後は、下三連と弧平を避ける規則がありますが、多分大丈夫ですからここでは省略します。

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李白の漢詩清平調詞の作られた背景は

この詩は玄宗皇帝が楊貴妃と出会ってまだ安禄山の乱がおこる前の平和な時代の頃に作られました。玄宗皇帝は楊貴妃を伴って宴会をしていたようですが、俄かに李白を呼んで詩を作らせようとします。

その頃李白は二日酔いでどこかで眠っていたようですが、この呼び出しを受けて、たちまち三首の詩を作って献上したと言われています。

いずれも楊貴妃の美しさをたたえる詩ですから玄宗皇帝も喜んだことでしょう。この詩の出来栄えに満足した玄宗皇帝は宮中の楽師たちに演奏をさせ、自らは笛を吹き、名歌手と言われる李亀年に歌わせたといいます。

清平調は唐代に作られた楽曲の調子の一つだそうです。李白も出来栄えに満足したと思っています。

実はこれには落とし穴がありました。玄宗皇帝に仕えていた宦官の高力士は実はかねてから李白に恨みをもっていました。

と言いますのは、ある時李白がいつものように酔っぱらっているときに玄宗皇帝から呼び出しがあった際に、酔っぱらって靴が脱げなくなることがあったそうです。

その時高力士に自分の靴を脱がせろと言ってひっくり返っていたそうです。高力士にとってはこれをとても屈辱に思い、何時か仕返しをしようと考えていたそうです。

そこで、問題となったのが、其の三の詩です。楊貴妃を漢の時代の絶世の美女趙飛燕に例えたのがまずかったようです。

趙飛燕が貧しい出自だということは先ほど説明しましたが、皇后になった後、成帝が亡くなり、その後、しばらくは皇太后として保っていましたが、さらに代替わりをして、最後は庶民に落とされ自殺したとされています。

そのような者を楊貴妃の引き合いに出すのは、楊貴妃を侮辱したとする主張をしたようです。このため李白は官職を得られず宮廷を去ることになったとされています。恨みとは怖いものです。

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漢詩の李白の清平調詞の鑑賞と七言絶句の規則のまとめ

李白の漢詩清平調詞について解説してきました。難しそうに見える漢詩も段々回数を重ねることによって、規則も自然に身につきますので、楽しみながらチェックしていくことです。

清平調詞は典故が多くて難しかったと思います。李白の時代はこの程度のことは当たり前の共通知識でしたでしょうが、なかなか我々には難しいですね。

それにしても、人の恨みをかうということは大変なことだと思いました。

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